評論家、亜細亜大学講師(交通政策論)
昭和31(1956)年東京都江戸川区生まれ。亜細亜大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得。専攻は交通政策論、工業経済論。
経済政策学会、国際公共経済学会、公益事業学会、日本交通学会会員。主著として『都市鉄道整備の展開』(電気車研究会)、『地下鉄の歴史』『モノレールと新交通システム』(グランプリ出版)、『鉄道時代の経済学』『コミュニティ鉄道論』(交通新聞社)等がある。
公共交通や公共事業、公共施設など、公共を冠する言葉はたくさんあるが、そもそもこの公共、あるいは「公共性がある」とはどんな意味なのか。公共交通の公共性は、共同性(commonage)と公開性(publicness)の2つの意味で説明される。公共交通は、マイカーのように私的に使われるのとは違って通常の場合一定の路線を決まったスケジュールで乗り合い型式で運行される点が共同性であり(例外もある)、だれでも利用を希望する者は拒否されない点が公開性である。つまり、人々が日々の生活にとって欠くことのできない交通機関・移動手段として、移動可能性(=モビリティ)を保証するための道具立てとしての意義があるということである。
そこで、移動可能性とは具体的に何なのかを説明しなければならないだろう。ここで、100年ほど前、山間の過疎地にあって住民生活や経済活動がある域内で完結していたような地域を想像していただきたい。そこに新しく鉄道が敷設されたとすると、どんな変化があるだろうか。おそらく、その地域で生産された産物は域内にとどまらず、広く域外にも流通するようになり、生産者はより大きな収入を獲得する機会を得ることになる。自給自足の閉ざされた経済から市場経済の中に取り込まれて流通が盛んになる。あるいは、域内のごく限られた職種にしか就けなかった人たちは、より多くの仕事を選択することができるようになり、より高い賃金や待遇を獲得することも可能である。自宅を離れて下宿するしかなかったり、そもそも上級の学校への進学を断念せざるを得なかったりした生徒が、自宅から通学できるようにもなる。つまり、所得・生活水準の上昇、就業や就学の機会の拡大といった、いわば住民の生活が質的に向上することが期待される。
憲法には、基本的人権として、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとあるが、移動可能性を維持したり高めたりすることも、その一つに位置づけられる。そして、そのことが国や自治体といった公共部門が、交通事業を自ら運営したり運営に関与したりすることの根拠となる。つまり、公共部門は公共交通の運営という公共サービスの提供を通じて、住民の移動可能性を守る責任を負っているのである。突き詰めていくと、公共部門が提供し、広範囲な人々の共通の利益のために提供されるという意味で、公共財と似たような性格を持ち合わせているという事ができる。
公共財は、「非排除性」と「非競合性」の2つの性質を持つ財と定義される。
公共財の持つ2つの性質
この2つの性質は国防を例に出すのが分かりやすい。国民のうち特定の誰かを国防の恩恵を受けられないように排除するのは困難である(=非排除性)し、誰かが国防の恩恵を受けることで、他の誰かが国防の恩恵を受けられなくはならない(=非競合性)。
街路の場合も同じで、料金所を設置し通行料金を徴収するようなことは非現実的であり、そもそも不特定多数の通行者全員から料金を徴収するのは困難である。これが非排除性である。また、混雑していなければ、誰か一人が街路を通行しても、他の誰かの通行が阻害されるわけではないので、非競合性があるといえる。
このように、公共財は代金・料金という形で代価を支払わなくても、そのサービスの提供を受けることができる。だから、代価を支払わなくても利用できるために、「ただ乗り」が不可避となる。そのため、公共財は、公共部門が課税などによって供給費用を徴収しなければならない。利用者が直接代価を払うことなく広く薄く負担するのである。