このところ社会資本整備に関して、単年度の視点から「公共事業」ととらえて見直し論議が高まっている。また個別の事業を予算額(金額)で評価するという風潮も感じられる。しかし総予算の中で公共事業費の占める割合が何%か、あるいはGDPに対する比率が先進諸国と比べてどうかといった観点ばかりから社会資本整備を論じていたのでは、日本は未来への道を見誤りかねない。
社会資本の本質はストック効果にある。整備事業そのものは単年度の取り組みの積み重ねだが、それが蓄積して生み出す効果は時代を超えて長期にわたり、しかも広範囲に及ぶ。
例えば「利根川の東遷」は江戸時代の初めに行われた事業だが、これにより江戸の安全性が高まるとともに舟運のルート(物流線)が確立された。そしてその効果は関東平野や江戸・東京の繁栄を350年以上にわたって支え続けるという、より大きな効果を生みだしている。
北陸地方でも立山カルデラと常願寺川の治水は明治期に始まり、流域の水害を抑制するとともに、富山平野の多彩な土地利用を可能にし富山県の発展を支え続けている。新潟の大河津分水や信濃川の流路固定も明治に始まった事業だが、その時期だけの物語ではなく、安全性が高まった越後平野を現代に生きる私たちが預かって様々に利用しているわけである。
つまり社会資本整備とは、直面する課題を解消するとともに、次世代やそのまた先の世代の生活や社会を支える基盤を構築するという、時を超えた国づくり、地域づくりでもある。逆にいえば社会資本整備を削減すること、公共事業を減らすということは、将来の世代にとっての生活や社会、競争力の基盤を小さくしている、少なくしているということに他ならない。
戦後日本は決して豊かではなかった。しかし当時の先輩たちは空きっ腹を抱えつつも治山・治水、道路や空港・港湾整備、電力開発など社会資本整備という将来への投資を行った。その投資の効果を果実として受け取り、現在の私たちの豊かな暮らしが成り立っているのだ。
私たちの子どもや孫たちにこの生活水準を保てる社会を継承できるのか、あるいはさらに豊かな日本を実現するための強力なインフラを残せるのか。それは現代に生きる私たちの役割、責務であろう。そう考えると現在の財政が苦しいから公共事業を減らそう、あるいは社会資本整備に充当する財源を他に回そうといった単純な議論は、将来の日本を衰退させかねないといえる。