地域指標

北陸地域における北東アジアとの経済連携の調査研究 プロジェクト1「北陸地域における北東アジアとの経済連携の調査研究」の活動から

2008.4

北陸地域づくり研究所

6. 北陸系企業の進出実態

2007年8月〜9月に、中国とロシアで行った聞き取り調査の結果から、特徴的な事例に絞って報告する。

福井のA社(上海進出)は、越前漆器を売っている会社である。蒔絵の需要が少なくなって職人も減ってきたことから、将来は中国で漆器が売れるだろうと考え進出を決めた。進出方法については、先に進出していた企業に聞き、進出に際しては空港・高速道路に近いことが当社としての条件であった。1992年に合弁で試作を始めたものの、3〜4ヶ月でそれをやめた(投資額32万ドル)。その理由は、国営工場の一部を借りて試作を行っていたが、日本円で10万円だった家賃を突如30万円に値上げされたりしたからである。しかし、1993年に合作(国営会社サポート)で再び事業活動を始め、2000年から独資に移行した。進出後から、上海市郊外の南翔市の知人に、合成塗料の入手、残業(40時間以上)の取り扱い、保険などについてアドバイスを受けている。

富山のB社(蘇州進出)は、主要取引先からの進出要請と新市場開拓を目的に進出した。進出にあたって、主要取引先の事業計画に準拠せざるをえない状況にあったが、その事業計画自体がうまく機能せず、稼働直後からそのしわ寄せを受ける形となった。自らの販路開拓努力も実り昨年度より単年黒字に転換しているが、労務管理ができなければ品質管理もありえず、会社の存続も危ういと考えている。

福井のC社(蘇州進出)は、T社を中心とした自動車内装製品を手がけている。進出先の選択は、(1)交通インフラ、(2)電気・ガス、(3)水(太湖の水を使う)、(4)政策の透明性、(5)繊維産業発達:南通(東レ、帝人)を考慮した。当初は天津も候補地に上がったが、長江市場の将来性と将来広州の自動車産業との連携も考えて現在地にした。C社の経験から、北陸系企業(中小・中堅)が進出するにあたって留意すべき点としては、(1)中国に安物は売らない、(2)これからは中国市場を狙う進出がいい、(3)環境に関する規制が厳しい、(4)輸出から内需にシフトしている、(5)外資優遇策がなくなることを織り込む、(6)中国の仕事の事情を知らないで進出しても成功しない、等の点に留意すべきとしている。

石川のD社(蘇州進出)は、ホームカーテン、カジュアル・スポーツなどを生産している。進出の動機は、当地が水量豊かで、排水処理設備も充実していたためである。石川県と江蘇省、それに蘇州市と金沢市が友好都市ということもある。仲介者のH氏は蘇州市の事情に明るいことから、人脈も活用できるメリットもあった。消防署は省政府とよく意見衝突しているため、その影響で建物の許可がおりなかったり、有機溶剤(防爆施設、防火シャッター)処理問題を指摘されたりしたこともあった。

福井に工場があるE社(本社京都市:蘇州進出)は、薄膜技術を用いた電子部品(金属皮膜チップ抵抗器等)を製造している。中国国内では後処理(単純作業)を実施、全数検査等人手がかかる部分を行っている。進出交渉では、当局は歓迎姿勢であったが、準備が進むにつれて覆るということもあった。進出の事前調査としては、日系企業の進出に合わせたため、当初から販売の目処は立っていた。

石川のF社(無錫進出)は、主に工作機械用チップコンベヤを製作する会社である。チップコンベヤ、クーラントタンクのいずれも工作機械に付随するもので、近年海外輸出(特にBRICs)が増えていたため、中国進出を決定した。

無錫へ進出することになったきっかけは、もともと中国進出以前の2000年から板金フレームの製造委託先を中国で探しており、それが無錫で見つかったためである。コンサルタントや仲介業者は立てず、書類をJETROからチェックしてもらう程度で、通訳は現総経理である上海事務所長が行った。現地企業(協力工場)との代金回収の問題はある。ただし、事業を継続する中で、取引企業は選別されつつある。また、言葉の問題よりも、日本人との発想の違いの問題は大きく、例えば、製品に足あとが付いていたり汚れや傷があったりしていても平気である。

北陸から、または中小企業の進出を考える場合、無錫新区は、開発区として国家管理がされており、大きな日系企業も多く、また日本人学校設立も決まるなど、企業が進出しやすい地域といえる。新区進出企業はほぼ日本人会に入っておりその数は数百社に上り、日本人は3,000〜4,000人が駐在するといわれている。

新潟のG社(天津進出)は、1991年8月に独資で開業した衣料品製造会社である。婦人服のコート、スーツなど約300万点を生産している。日本から発注・設計し、中国で製造、さらに日本へ輸出している。

天津港はハード・ソフトとも使いやすい。税関とは信頼関係も醸成されており、当社は税関から信頼性AAの評価を受けているためほとんど書類審査のみである(本来はA評価までしかなく、AAは長年の信頼関係の結果といえる)。中国人は教えられるのは嫌いだが、教えるのは好きだと思っている。若い女性が多いため、結婚出産で毎年200人(2割弱)は入替がある。最初の1カ月の研修期間では厳しく指導しており、半分はこの期間で辞めるが、その後の定着率はいい。

これからでも北陸の企業、中小企業の進出余地は十分にある。ただ、「とりあえず」進出してみたいという相談が結構多いが、中国進出の目標やビジョンがないと失敗する。

岐阜のH社(琿春進出)は、2006年11月に現工場(衣料)に引越し、本格的なスタートを切った。

人件費の低廉さを考えると内陸部でもよいのかもしれないが、当社では武漢が限界と考えていたので、情報が細って流行に疎くなってしまうような地域は避け、日本までの物流コスト・時間で有利な地域を条件に探した。その結果、琿春に落ち着いた。

その他、琿春市を選択した理由は、(1)中国政府の東北振興策、(2)日本語を解する人材が多い、(3)電気・水道が豊富である、(4)地元政府が誘致に積極的、といったことが挙げられる。

一方、進出後明らかになった問題点としては、中国国内の物流ルートが確立していないことである。こちらに進出してから、大連経由、延吉経由など様々なルートを模索した。日本からは、OCSでは送れるようになったが、FedexやUPSでは配達区域外となっている。

新潟のI社(延吉)は、2005年8月設立。同社の延吉進出の経緯は、1996年に日本でのプログラマー不足に伴って延吉出身者が入社したことに始まる。延辺への進出理由としては、教育水準が高い、日本語を勉強している人が多い、州政府や市政府の高官が極めて親切で信頼できる、会社設立への支援・優遇策が厚い、文化やものの考え方、価値観が似ている、気候や風土が似ていて食事がうまいなどである。困った点として、障害者雇用問題や労働組合費の徴収問題などがある。

新潟のK社(ウラジオストク進出)は、1993年に現地に事務所を構え、日本向けのロシア経済情報誌(週刊)の発刊をはじめた。設立当時からしばらくの間、ロシアはもとより日本経済の低迷等もあって交流が停滞した時期が続いたが、K社にとってはこの期間があったからこそ大手商社などとの競争に巻き込まれることもなく、ノウハウを蓄積することができた。K社の貿易品目は、化粧品や即席麺等インスタント食品、業務用の調味料、ビール等である。現地の情報、生の声を集め、大手企業では対応が困難であるような少量輸出を行っている。極東は約750万人の人口があるが、日本からの輸入品を購入できるいわゆる富裕層は、このうち5%のごく限られた層であるため、極東全体で日本の地方都市レベルの商圏であることに留意すべきである。

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