逆説的な言い回しだが、再生は危機や困難を抱えた地域しか成し得ないし、危機を危機として認識しないのは最大の危機である。危機を共有しない限り、再生というのはあり得ない。
北陸では、地震と豪雪という自然災害に直面したことで、不幸な形ではあったが危機の共有が可能になった。そこから立ち上がろうとする集落や自治体が生まれ、復興支援員をはじめ様々な新しい動きが始まっている。中越にしろ能登にしろ、全国的に見て非常に元気があり、農山村の再生をリードするモデルあるいはフロンティア地域と言っても過言ではない。
私は中国地方の再生の取り組みにも注目している。中国地方は高齢化が進んでおり、集落機能が低下している地域も多い。そういう危機の共有から、新しいコミュニティづくりの動きが活発だ。例えば、小学校の学区単位で「○○振興会」という自治組織を立ち上げ、多彩な住民自治を行っている。集落を複数束ねたような規模の組織にすることで、集落機能の低下を補い、一方で大きくなりすぎた市町村に代わる、住民に目の届く大きさの自治組織となっている。
もともとは大規模な水害で生まれた防災組織が基盤で、それがイベント組織になり、さらに地域福祉を行う組織へと変化していった。ふれあい会食をしたり、サテライト型のデイケアを担い、現在は経済組織としてガソリンスタンドや商店を経営したり、特産品をつくっている。
北陸や他の地域では、イベント組織まではいくが地域福祉の組織というのはあまり多くない。いわんやガソリンスタンドを経営したり、商店を経営したりというのもあまりない。そういった点から中国地方の取り組みも、今後の農山村の地域づくりや再生方策の参考となるだろう。
危機の共有と並んで当事者意識の形成も重要だ。誇りの空洞化に侵されて嘆くだけに終わっている農山村は多い。人口が多かった時代を思い出して、あの頃はよかったと嘆いくだけで何も行わない。そうではない。人口が少ないなりに新しい仕組みをつくろうと発想を転換すべきだ。従来の古い仕組みにしがみつくのではなくて、みずから新しい仕組みをつくり出すという、そういう当事者意識を一人一人が持つことが重要だ。
ただ嘆くだけで、どうすれば住み続けられるのかを考えないのは、誇りの空洞化のはじまりだ。何とか住み続けたいんだという当事者意識を持って、繰り返し、繰り返し、チャレンジをする。そういう姿を子供たちに見せていただきたいと思う。
農村部から出て行った子供たちは、35歳前後になると、自分の先も見えたことから帰ってくる可能性があるといわれる。その時に「こんな所に帰ってくるな」と言うのか、「帰ってきても苦しいかもしれないけど、一緒にやろうか」と声をかけるのか。それは生まれ育ってきた地域の誇りや、住民であることのプライドを継承できるかどうかということでもある。