建設業と地域経済の再生-「複業化」のすすめ

業種を越えた「複業化」で建設業の再編・再生を進めつつ地方の自立型産業の創出を推進する。

米田 雅子(慶応義塾大学理工学部教授)

米田 雅子(よねだ まさこ)
写真:米田 雅子

慶応義塾大学理工学部教授

山口県生まれ。お茶の水女子大学理学部卒業後、新日本製鐵株式会社に入社。

1998(平成10)年NPO法人建築技術支援協会を設立し常務理事に就任。その後東京工業大学講師、同大学統合研究院特任教授を経て、2007(平成19)年より現職。内閣府規制改革会議委員、経済産業省産業構造審議会委員等を歴任。建設産業及び地方活性化、農林業再生が専門テーマで、地域建設業の複業化など建設業の活性化支援や政策提言を行う「建設トップランナー倶楽部」の代表幹事も務めている。主な著書に『建設業からはじまる地域ビジネス』(ぎょうせい)、『日本には建設業が必要です』(建通新聞社)などがある。

「プラザ合意」が変えた日本の建設産業

日本経済は依然として低迷が続いている。大都市に比べて地方の経済がなかなか回復せず、むしろ地域格差は拡大しているようだ。

建設業の低迷は地方経済に大きな影を落としている。地方の主要な産業は農林水産業と建設業であり、さらに公共部門の需要が重要な役割を担っている。しかし、農林水産業は後継者不足や高齢化、建設業は公共投資や民間投資の減少による競争の激化、といった構造的な危機に直面しており、一方で自治体の財政は逼迫し公共部門の需要は伸びない。地方経済の再生に課題は多い。

国が発展する時には社会基盤やインフラが必要になる。そのため建設業が発展する。国土建設(社会基盤の整備)が進むと、新規需要は減少するが維持管理や更新などの需要が見込まれ、建設業は安定的な成熟産業として推移する。これが一国における建設産業の生成発展のシナリオである。

日本の国土建設の歴史を紐解くと、建設産業は戦後の高度経済成長期に大きく成長した。そして1970〜80年代のオイルショックを境に、少し縮小したものの、その後は基幹産業の一つとして安定的に推移していた。ところがその状況を一変させる大事件が起こった。1985年の「プラザ合意」である。

財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」に苦しむアメリカ経済を放置すると、世界経済が危機に瀕する恐れがある。そこで各国が協調して為替レートをドル安に誘導することに合意した。当時、輸出超過で経済が好調だった日本とドイツの通貨を、円高、マルク高にすることを決めた。円高ドル安にすることで、アメリカの輸出を拡大し日本からの輸出を抑制。貿易収支のバランスを改善しようというわけである。

この時アメリカは日本に対して、さらに輸入拡大につながる即効性のある政策を実施するよう要請した。これに応えて日本は公共投資の増大による内需拡大を約束する。そしてその国際公約に基づいて進められたのが、リゾート法(中曽根内閣)、ふるさと創生事業(竹下内閣)等に象徴される地方への公共投資の拡大政策だ。

並行して進められた金融緩和(低金利)政策もあって、日本はバブル景気に突入。内需拡大を合言葉に、全国で様々な社会インフラや公共施設の建設が進行する。成熟期を迎えたはずの建設業は、再び高度経済成長期のような拡大へと向かう。

成熟産業としての先進国タイプから、発展途上国タイプの建設業へのUターン。プラザ合意によって、日本の建設業の歴史は大きく変わったと言っても過言ではない。

図1 国土建設の戦後史

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